Chapter 3
信用ポジション:
と遅れ時間
3.1 履行と決済の差
第2.2節の履行 と、 式(2.8)の が定める決済 (ただし )の累積を
| (3.1) |
と書く。 は与えた価値、 は受け取った対価である。
定義 3.1 (信用ポジション). 主体 に対する信用ポジションを
| (3.2) |
と定義する。式(3.1)より
であり、 は式(2.8)の の関数である。 同じ履行 に対して を差し替えれば が変わる。 は企業が に与信している状態(履行済み・未回収)、 は が企業に与信している状態(受領済み・未履行)を表す。
信用ポジションの総和に棚卸資産を加えた量を、以降で繰り返し用いる。
式(3.3)の は事業に拘束されている資金の量であり、 第5章ではこれを売上速度で割って を定義する。
式(3.2)の利点は統合性にある。
四つの別勘定ではなく、符号と添字の異なる単一の量である。
3.1.1 各項を説明する既存理論
の各項には、それぞれ確立した理論がある。 本稿はこれらを土台として用いる。
| 主体と符号 | 現象 | 説明する理論 |
| (企業間) | 掛売 | |
| (企業間) | 前受 | |
| (対消費者) | 前払い契約 | メンタルアカウンティング、退蔵の実証 [13] |
| 買掛 | 取引信用の鏡像 |
|
| 給与後払い | bonding argument、後払いによる規律 [1] |
|
| 借入 | 企業金融の標準理論 |
|
| 出資(残余請求権) | 主体依存。定義3.21 |
注 3.3 (四つの理論は互いを参照しない). 表3.2の理論は、それぞれ異なる分野で異なる問いに答えるために発展した。
| 理論 | 分野 | 中心的な問い |
| 取引信用 | 企業金融 | なぜ供給者が銀行より安く与信できるか |
| bonding argument | 労働経済学 | なぜ非自発的失業が存在するか |
| シグナリング | 情報の経済学 | 能力をどう開示するか |
| 前払い契約の研究 | 消費者行動 | なぜ消費者が先に払うか |
問いが異なるため、これらは互いを引用しない。 しかし式(3.8)において、 顧客の前払い、仕入先の掛売、労働者の後払い、資本の出資は すべて同一の和の項として現れる。
各理論は和の一項ずつを説明するが、和として扱う枠組みを持たない。 本稿の寄与はこの統合にあり、個々の項の説明にはない。
累積の関係を図3.1に示す。
3.1.2 取引の両側: は反対称である
式(3.2)は自社の帳簿で書いた量である。 同じ取引を相手方 の側で書くと、与えた価値と受け取った対価が入れ替わる。
証明. が に与えた価値は が から受け取った価値であり、 が から受け取った対価は が に与えた対価である。 したがって 、 であり、 式(3.2)に代入すれば従う。 □
注 3.5 ( の共有が要る). 式(3.4)は両者が同じ を用いることを前提とする。 注3.23のとおり は主観的でありうるが、 決済額 は 可測で一致するから、 不一致が生じるのは の側だけである。 検収基準の相違や係争中の債権がこれにあたる。
反対称性から、集計についての帰結が出る。
系 3.6 (企業間の信用は集計で消える). 法人部門に属する主体の集合を とすると、 の内部で閉じた信用ポジションの総和はゼロである。したがって
| (3.5) |
が成立する。ここで は法人部門と家計・政府・海外との あいだの正味ポジションである。
系 3.7 (すべての階層が与信の出し手にはなれない). 法人部門を互いに素な階層に分割したとき、 すべての階層が企業間で正味の与信の出し手であることはありえない。 ある階層が正味の出し手であれば、別の階層は正味の受け手である。
証明. 系3.6より、階層をまたぐ企業間ポジションの総和はゼロである。 すべての階層で正味ポジションが狭義に正であれば総和も狭義に正となり、ゼロに矛盾する。 □
系3.7は、規模階層の比較に構造的な制約を課す。 第IV部で与信の向きを規模別に測るとき、 観測される符号の一部はこの制約から自動的に決まる。
注 3.8 (集計の が測っているもの). 式(3.5)を売上の総和で割ると、集計の が得られる。 分子から企業間ポジションが落ちているから、 集計の は企業間信用の指標ではない。 残るのは対非法人ポジションと在庫である。 第16章で全産業の を報告するが、 その水準の解釈にはこの区別が要る。
3.1.3 の並置に対する加法性
一つの主体が複数の を並行して運用することがある。
加法的なのは と であって、 ではない。 は比であり、比は加法的でない(系5.19)。
3.1.4 遅れ時間としての表現
は累積の差であり、その内実は履行と決済の時間差である。 これを明示する。
式(3.2)の を、遅れ時間 で表す。
証明. 決済が履行から一律に 遅れるとき、時刻 における未決済の累積は 直近 期間の履行にあたる。
が一定であれば右辺は に等しい。 遅れが分布を持つ場合は をその平均とすればよい。 □
注 3.13 (平均としてのみ成立する). 実際の決済は離散的である。月末締め翌月末払いであれば は月に一度のパルスとなり、 は鋸歯状に変動する。 式(3.7)はその時間平均について成立するにすぎない。
期末残高を用いる統計では、決算期が特定の月に集中していれば 鋸歯の位相が揃い、平均から系統的に乖離しうる。 本稿はこの偏りを補正していない。
例 3.14 (年払いサブスクリプションの ). 月額1,000円のサービスを年払い12,000円で1月1日に受け取る。 履行は12か月かけて均等に行われるから、 か月経過時点で
で 、 で 、 で である。 顧客100名なら、期央の平均で 円。 これがそのまま無利子の調達額となる。
3.2 現金残高の分解
式(3.2)の を用いて現金残高を分解する。
証明. 貸借対照表恒等式より、資産の総和は負債と純資産の総和に等しい。 資産を現金 、正の信用ポジション(売掛金・前渡金など)、棚卸資産 、 固定資産 に分割し、負債を負の信用ポジション(買掛金・前受金など)に、 純資産を に対応させると
について解けば式(3.8)を得る。 □
式(3.8)は恒等式の並べ替えにすぎないが、読み方を規定する。 第二項が他者から引き出した与信の総額、第三項が他者に与えた与信の総額である。
3.2.1 正味の形
式(3.8)の第二項と第三項は、総額を分けて見せるために置いている。 正味だけを見るなら、任意の実数 について であるから、 二項は打ち消し合う。
証明. を について足すと である。 式(3.8)に代入し、 をまとめて とすればよい。 □
例3.19で確かめると、、 より であり、 で一致する。
式(3.9)は式(3.8)と同じ内容だが、 を通じて第5章の に接続する。 第4.2節の制約 が の選択にどう効くかは、この形を経由して定まる。
注 3.18 (既存の恒等式である). 式(3.9)は財務分析で用いられる恒等式 (現金 = 自己資本 正味営業資産)と同一である。 本稿における意味は、 が式(3.2)を通じて の関数であり、 したがって現金制約が についての制約になる点にある。
例 3.19 (三者からの調達). 自己資本100万円で開業した事業が、顧客から年払いで600万円を受け取り (万円)、クラウド事業者に対して未払い50万円を持ち (万円)、大口顧客への売掛金が200万円ある(万円)。 在庫はなく、固定資産は30万円とする。
自己資本100万円に対し手元現金は520万円である。 差額420万円は顧客と仕入先から引き出した与信であり、返済期限を持つ。
3.2.2 自己資本と資本提供者
命題3.15の は残余として現れるが、内訳を明示する。 式(3.8)はこの を用いている。
定義3.20は第6章の と本章の を結ぶ。 の三分解を代入すれば
となる。第6章では が学習と規制で削られることを扱うが、 削られるのは将来のフローであり、過去に蓄積した分は に残る。
証明. 式(3.8)は貸借対照表恒等式の変形であり、 全主体が同一の値を認識する量のみで構成される。 売掛金や買掛金は当事者間で額が一致するが、 式(3.11)の は に依存し一致しない。 主体依存の量を含めれば恒等式が主体ごとに変わり、恒等式でなくなる。 □
注 3.23 (主観性の三段階). 本稿には観測できない量が複数現れるが、性質が異なる。 第4章の を用いて三段階に分けられる。
の主観性は情報の非対称であり、開示によって解消しうる。 の主観性は確率測度の不一致であり、 同じ情報を見ても予測が異なるため開示では解消しない。
この区別から二つの帰結が出る。 第一に、 の値は当事者間で一致せず、他の と性質が異なる。 第二に、その不一致こそが出資を成立させる。 出資者が経営者より を高く評価するから出資する。 これは命題4.10の割引因子の異質性と同型の構造である。
資本の期限については注3.24で述べる。
注 3.24 ( と倒産). は借入では返済期限として確定するが、出資では確定しない。 資本は最も長期の与信であり、期限を持たない。
配当を義務化すれば が確定するが、 支払不能時に式(4.3)が直ちに破れる。 義務化せず残余請求権とし、 第4.2節の倒産時刻 において強制的に清算する仕組みが これを回避している。破産は の確定機構である。
注 3.25 (預り金の扱い). のうち、エスクローのように法的に他人に帰属する資金は、 式(3.8)上は同じ位置に現れるが性質が異なる。 流量が減少すると急速に流出するため、他の負の と同一視してはならない。