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v0.28.9 — 本稿は建設中です。理論の構成、命題、実証の結論はいずれも変更されうるものです。概要

Chapter 3
信用ポジション:κ と遅れ時間 τ

3.1 履行と決済の差

第2.2節の履行 δi と、 式(2.8)の Φ が定める決済 πi(ただし π = Φ(δ))の累積を

Di(t) = ∫ 0tv(δ i(s))𝑑𝑠,Pi(t) = ∫ 0tπ i(s)𝑑𝑠 (3.1)

と書く。Di は与えた価値、Pi は受け取った対価である。

定義 3.1 (信用ポジション). 主体 i に対する信用ポジションを

κi(t) = Di(t) − Pi(t) (3.2)

と定義する。式(3.1)より

κi(t) = ∫ 0tv(δ i(s))𝑑𝑠 −∫ 0tπ i(s)𝑑𝑠

であり、κi は式(2.8)の Φ の関数である。 同じ履行 δ に対して Φ を差し替えれば κi が変わる。κi > 0 は企業が i に与信している状態(履行済み・未回収)、 κi < 0 は i が企業に与信している状態(受領済み・未履行)を表す。

信用ポジションの総和に棚卸資産を加えた量を、以降で繰り返し用いる。

定義 3.2 (運転資本). 棚卸資産を Inv(t) ≥ 0 として

W(t) = ∑ i∈Nκi(t) + Inv(t) (3.3)

と定める。κi が Φ の関数であるから、W も Φ の関数である。

式(3.3)の W は事業に拘束されている資金の量であり、 第5章ではこれを売上速度で割って CCC を定義する。

式(3.2)の利点は統合性にある。

勘定科目 主体 符号 意味
売掛金 C κC > 0 企業が顧客に与信
前受金・契約負債 C κC < 0 顧客が企業に与信
買掛金 S κ S < 0 仕入先が企業に与信
前渡金 S κS > 0 企業が仕入先に与信
表 3.1: 式(3.2)が統合する四つの勘定科目。

四つの別勘定ではなく、符号と添字の異なる単一の量である。

3.1.1 各項を説明する既存理論

κi の各項には、それぞれ確立した理論がある。 本稿はこれらを土台として用いる。

主体と符号 現象

説明する理論

κC > 0(企業間) 掛売

取引信用の四類型。金融優位、価格差別、品質保証、清算優位 [14,  15]

κC < 0(企業間) 前受

reverse trade credit。供給者金融、取引保証、交渉力 [12,  7]

κC < 0(対消費者) 前払い契約

メンタルアカウンティング、退蔵の実証 [13]

κS < 0 買掛

取引信用の鏡像

κL < 0 給与後払い

bonding argument、後払いによる規律 [1]

κK < 0 借入

企業金融の標準理論

κKi 出資(残余請求権)

主体依存。定義3.21

表 3.2: κi の各項を説明する既存理論。

注 3.3 (四つの理論は互いを参照しない). 表3.2の理論は、それぞれ異なる分野で異なる問いに答えるために発展した。

理論 分野

中心的な問い

取引信用 企業金融

なぜ供給者が銀行より安く与信できるか

bonding argument 労働経済学

なぜ非自発的失業が存在するか

シグナリング 情報の経済学

能力をどう開示するか

前払い契約の研究 消費者行動

なぜ消費者が先に払うか

表 3.3: κi の各項を説明する理論の分野と中心的な問い。

問いが異なるため、これらは互いを引用しない。 しかし式(3.8)において、 顧客の前払い、仕入先の掛売、労働者の後払い、資本の出資は すべて同一の和の項として現れる。

各理論は和の一項ずつを説明するが、和として扱う枠組みを持たない。 本稿の寄与はこの統合にあり、個々の項の説明にはない。

累積の関係を図3.1に示す。

図 3.1: 累積履行 D(t) を基準線とした信用ポジション。決済曲線 P(t) が D(t) の上にあれば κ < 0、下にあれば κ > 0。

3.1.2 取引の両側:κ は反対称である

式(3.2)は自社の帳簿で書いた量である。 同じ取引を相手方 i の側で書くと、与えた価値と受け取った対価が入れ替わる。

命題 3.4 (反対称性). 二つの主体 i と j が評価写像 v を共有するとき、 i の帳簿における j への信用ポジションを κj(i) と書けば

κj(i) = −κ i(j) (3.4)

が成立する。

証明. i が j に与えた価値は j が i から受け取った価値であり、 i が j から受け取った対価は j が i に与えた対価である。 したがって Dj(i) = Pi(j)、Pj(i) = Di(j) であり、 式(3.2)に代入すれば従う。 □

注 3.5 (v の共有が要る). 式(3.4)は両者が同じ v を用いることを前提とする。 注3.23のとおり v は主観的でありうるが、 決済額 π は 𝒢 可測で一致するから、 不一致が生じるのは D の側だけである。 検収基準の相違や係争中の債権がこれにあたる。

反対称性から、集計についての帰結が出る。

系 3.6 (企業間の信用は集計で消える). 法人部門に属する主体の集合を 𝒩 とすると、 𝒩 の内部で閉じた信用ポジションの総和はゼロである。したがって

∑ i∈𝒩W(i) = κ対非法人 + ∑ i∈𝒩Inv(i) (3.5)

が成立する。ここで κ対非法人 は法人部門と家計・政府・海外との あいだの正味ポジションである。

証明. 𝒩 の内部の各対 (i,j) について式(3.4)より κj(i) + κi(j) = 0 である。 定義3.2の W を 𝒩 の全主体について足すと内部の対は消え、 外部との対と在庫が残る。 □

系 3.7 (すべての階層が与信の出し手にはなれない). 法人部門を互いに素な階層に分割したとき、 すべての階層が企業間で正味の与信の出し手であることはありえない。 ある階層が正味の出し手であれば、別の階層は正味の受け手である。

証明. 系3.6より、階層をまたぐ企業間ポジションの総和はゼロである。 すべての階層で正味ポジションが狭義に正であれば総和も狭義に正となり、ゼロに矛盾する。 □

系3.7は、規模階層の比較に構造的な制約を課す。 第IV部で与信の向きを規模別に測るとき、 観測される符号の一部はこの制約から自動的に決まる。

注 3.8 (集計の CCC が測っているもの). 式(3.5)を売上の総和で割ると、集計の CCC が得られる。 分子から企業間ポジションが落ちているから、 集計の CCC は企業間信用の指標ではない。 残るのは対非法人ポジションと在庫である。 第16章で全産業の CCC を報告するが、 その水準の解釈にはこの区別が要る。

3.1.3 Φ の並置に対する加法性

一つの主体が複数の Φ を並行して運用することがある。

命題 3.9 (κ の加法性). 互いに素な履行 δ1,…,δK に対して Φ1,…,ΦK を並行して運用するとき、

κ = ∑ k=1Kκk,W = ∑ k=1KWk (3.6)

が成立する。

証明. 式(3.1)の Di と Pi は積分であり、被積分関数について加法的である。 式(3.2)は両者の差であるから加法性を保つ。 □

加法的なのは κ と W であって、CCC ではない。 CCC = W∕r は比であり、比は加法的でない(系5.19)。

注 3.10 (分解は一意でない). 式(3.6)は分解の存在を述べるが、一意性を述べない。 同じ κ を与える {Φk} の組は複数ある。 第7章の類型は Φ の生成系であって基底ではない。

3.1.4 遅れ時間としての表現

κi は累積の差であり、その内実は履行と決済の時間差である。 これを明示する。

定義 3.11 (決済の遅れ). 主体 i について、履行から決済までの平均的な遅れを τi と書く。 符号は κi に合わせ、決済が履行より遅い場合を正とする。

符号

状態

例
τi > 0

決済が履行より遅い(企業が与信)

売掛金、掛売
τi < 0

決済が履行より早い(i が与信)

前受金、買掛金
表 3.4: 決済の遅れ τi の符号と対応する状態。

式(3.2)の κi を、遅れ時間 τi で表す。

命題 3.12 (信用ポジションの分解). 定常状態において履行速度が一定であるとき、時間平均として

κ¯ i = rτi (3.7)

が成立する。

証明. 決済が履行から一律に τi 遅れるとき、時刻 t における未決済の累積は 直近 τi 期間の履行にあたる。

κi(t) = ∫ t−τitr(s)𝑑𝑠.

r が一定であれば右辺は rτi に等しい。 遅れが分布を持つ場合は τi をその平均とすればよい。 □

注 3.13 (平均としてのみ成立する). 実際の決済は離散的である。月末締め翌月末払いであれば π は月に一度のパルスとなり、κi(t) は鋸歯状に変動する。 式(3.7)はその時間平均について成立するにすぎない。

期末残高を用いる統計では、決算期が特定の月に集中していれば 鋸歯の位相が揃い、平均から系統的に乖離しうる。 本稿はこの偏りを補正していない。

例 3.14 (年払いサブスクリプションの κ). 月額1,000円のサービスを年払い12,000円で1月1日に受け取る。 履行は12か月かけて均等に行われるから、t か月経過時点で

κC(t) = 1,000t − 12,000.

t = 0 で − 12,000、t = 6 で − 6,000、t = 12 で 0 である。 顧客100名なら、期央の平均で κC = −600,000 円。 これがそのまま無利子の調達額となる。

3.2 現金残高の分解

式(3.2)の κi を用いて現金残高を分解する。

命題 3.15 (現金の信用分解). 自己資本 E(t)、棚卸資産 Inv(t)、固定資産 A(t) を用いて

M(t) = E(t) + ∑ i∈N max ⁡ {−κi(t),0}−∑ i∈N max ⁡ {κi(t),0}−Inv(t) − A(t) (3.8)

が成立する。

証明. 貸借対照表恒等式より、資産の総和は負債と純資産の総和に等しい。 資産を現金 M、正の信用ポジション(売掛金・前渡金など)、棚卸資産 Inv、 固定資産 A に分割し、負債を負の信用ポジション(買掛金・前受金など)に、 純資産を E に対応させると

M + ∑ i max ⁡ {κi,0} + Inv + A = ∑ i max ⁡ {−κi,0} + E.

M について解けば式(3.8)を得る。 □

式(3.8)は恒等式の並べ替えにすぎないが、読み方を規定する。 第二項が他者から引き出した与信の総額、第三項が他者に与えた与信の総額である。

系 3.16 (現金の意味). 企業の現金とは、全ての相手方から引き出した信用の合計から、 与えた信用と固定化した資産を差し引いた残余である。

3.2.1 正味の形

式(3.8)の第二項と第三項は、総額を分けて見せるために置いている。 正味だけを見るなら、任意の実数 x について max ⁡ {−x,0}− max ⁡ {x,0} = −x であるから、 二項は打ち消し合う。

命題 3.17 (現金は運転資本の裏返しである). 定義3.2の運転資本 W を用いると、式(3.8)は

M(t) = E(t) − W(t) − A(t) (3.9)

と書ける。

証明. max ⁡ {−κi,0}− max ⁡ {κi,0} = −κi を i について足すと ∑ ⁡ i max ⁡ {−κi,0}−∑ ⁡ i max ⁡ {κi,0} = −∑ ⁡ iκi である。 式(3.8)に代入し、Inv をまとめて W とすればよい。 □

例3.19で確かめると、∑ ⁡ iκi = −600 − 50 + 200 = −450、 Inv = 0 より W = −450 であり、100 + 450 − 30 = 520 で一致する。

式(3.9)は式(3.8)と同じ内容だが、 W を通じて第5章の CCC に接続する。 第4.2節の制約 M ≥ 0 が Φ の選択にどう効くかは、この形を経由して定まる。

注 3.18 (既存の恒等式である). 式(3.9)は財務分析で用いられる恒等式 (現金 = 自己資本 − 正味営業資産)と同一である。 本稿における意味は、W が式(3.2)を通じて Φ の関数であり、 したがって現金制約が Φ についての制約になる点にある。

例 3.19 (三者からの調達). 自己資本100万円で開業した事業が、顧客から年払いで600万円を受け取り (κC = −600万円)、クラウド事業者に対して未払い50万円を持ち (κS = −50万円)、大口顧客への売掛金が200万円ある(κC′ = +200万円)。 在庫はなく、固定資産は30万円とする。

M = 100 + (600 + 50) − 200 − 0 − 30 = 520万円.

自己資本100万円に対し手元現金は520万円である。 差額420万円は顧客と仕入先から引き出した与信であり、返済期限を持つ。

3.2.2 自己資本と資本提供者

命題3.15の E は残余として現れるが、内訳を明示する。 式(3.8)はこの E を用いている。

定義 3.20 (自己資本). 払込資本を PK(t)、配当の累積を Div(t) として

E(t) = PK(t) + ∫ 0tϕ(s)𝑑𝑠 −Div(t) (3.10)

と定める。第二項が内部留保である。

定義3.20は第6章の ϕ と本章の E を結ぶ。 ϕ の三分解を代入すれば

内部留保 = ∫ (ϕprod + ϕbarg + ϕcog)𝑑𝑠 −Div

となる。第6章では ϕcog が学習と規制で削られることを扱うが、 削られるのは将来のフローであり、過去に蓄積した分は E に残る。

定義 3.21 (資本提供者との信用ポジション). 資本提供者 i ∈ K の確率測度 ℙi の下での残余請求権の価値を V i(t) = 𝔼i[将来キャッシュフローの現在価値] として

κKi(t) = V i(t) − PK(t) (3.11)

と定める。

命題 3.22 (κK は式(3.8)に入らない). κKi は資本提供者 i に依存するため、式(3.8)の恒等式に含められない。

証明. 式(3.8)は貸借対照表恒等式の変形であり、 全主体が同一の値を認識する量のみで構成される。 売掛金や買掛金は当事者間で額が一致するが、 式(3.11)の V i は ℙi に依存し一致しない。 主体依存の量を含めれば恒等式が主体ごとに変わり、恒等式でなくなる。 □

注 3.23 (主観性の三段階). 本稿には観測できない量が複数現れるが、性質が異なる。 第4章の 𝒢 を用いて三段階に分けられる。

段階 条件

例

共有 𝒢 可測

決済額 π、売掛金

私的情報 Ft 可測だが 𝒢 可測でない

評価写像 v、努力 a

測度依存 Ft 可測だが ℙj に依存

残余請求権の価値 V j

表 3.5: 観測できない量の三段階の主観性。

v の主観性は情報の非対称であり、開示によって解消しうる。 V j の主観性は確率測度の不一致であり、 同じ情報を見ても予測が異なるため開示では解消しない。

この区別から二つの帰結が出る。 第一に、κKi の値は当事者間で一致せず、他の κi と性質が異なる。 第二に、その不一致こそが出資を成立させる。 出資者が経営者より V を高く評価するから出資する。 これは命題4.10の割引因子の異質性と同型の構造である。

資本の期限については注3.24で述べる。

注 3.24 (τK と倒産). τK は借入では返済期限として確定するが、出資では確定しない。 資本は最も長期の与信であり、期限を持たない。

配当を義務化すれば κK が確定するが、 支払不能時に式(4.3)が直ちに破れる。 義務化せず残余請求権とし、 第4.2節の倒産時刻 τ において強制的に清算する仕組みが これを回避している。破産は κK の確定機構である。

注 3.25 (預り金の扱い). κi < 0 のうち、エスクローのように法的に他人に帰属する資金は、 式(3.8)上は同じ位置に現れるが性質が異なる。 流量が減少すると急速に流出するため、他の負の κ と同一視してはならない。